続・例のモーツァルト
なぜ、輝くモーツァルトを奏でられないか。さらに考えてみた。
究極を言うと、文化的土壌、言語の違い、民族気質の相違があるのは否めない。一つずつ拾ってみよう。
◆文化的土壌
ウィーンに旅行に行った時に痛感した。まずコンサートの量の違い。オケでも室内楽でも毎日バンバンやっていて、しかも安い。立ち見だと6ユーロとか。演奏者は一級。社交の場でもある感じを受けた。幼い頃からこの環境で様々な音楽に触れ合っていたら、当然耳は養われているだろう。
日本はどうだろうか。コンサートで言うとかなりの量をやっているが、月に1回以上行く人は稀だろう。結局良い音楽に触れ合っている時間が圧倒的に少ない。
次に、建物の構造。石造りがメインだ。当然音は響く。その音響の中で育ったら、音の出し方に違いが出るのは想像が付く。ハーモニー感覚も鋭敏だろう。
日本はというと、まずマンションだと音を出せない環境ばかり。一軒家だと木造で、音がデッドな環境だ。響きを感じる演奏が身に付きづらい。
◆言語の違い
これが一番関連があるかも。よく言われるのが、発音と音節。音楽は歌から始まっているから、言語で音楽は変わる。ドイツ語の強いアクセント、フランス語の何言ってるのか分からない流暢な感じ。全然違う音楽が出来上がるのは当然。
ドイツ音楽だったらドイツ語の発音が適しているだろう。逆に考えると分かりやすい。例えば越天楽をガチガチのアクセントで弾いてる人がいたら、なんだあれ? ってなる。同じことを僕はドイツ人に思われているのだろう。
次に音節はリズムの違い。日本語は、あらゆる音に母音があり、一音一音区切られる。この感覚で外国の歌を弾いたら、おかしなところにアクセントがあり、全く違う音楽になってしまうだろう。
◆民族気質
民族気質なのか誤った教育なのかは判断がつかないが、日本のクラシック音楽はコンクールで優勝するためのメソッドだ。職人的に楽譜の再現性をひたすら追い求め、その先のことはない。なぜならコンクールの審査で対象とならないから。
このフレーズは秋を感じます。麦畑が一面に黄金色に輝いているところに急に雨が降ってきました。こんなことを音からイメージしても楽譜の再現性に関連はない。でも音楽で大事なことってこういうことだよね。
こういう教育を受けた人にレッスンを教わると、変なことになる。周りにもテクニックは凄いけど、全く好きになれないヴァイオリニストがいるが、こういった教育の犠牲者なんだなと改めて思った。
フレーズの山場で、「感極まるルバート」をしたら怒られる。そんな事は書いてないだろうと。でも自然の欲求だったらいいじゃない。
もしモーツァルトにレッスンを受けたとしたら、彼はそんな事言うか? 逆の意味で怒られそう。
以上、これを言い出すと元も子もない考察をしてみた。この中で取り組めるのって言語と民族気質のことだよね。外国語を学べばいいし、ヨーロッパに長く住んでいた方に教えてもらえばいいんだもん。なんとかなりそうじゃない?