“例の”モーツァルト
一月ほど前だったか、ピアニスト小菅優さんのサントリー音楽賞受賞記念コンサートでのモーツァルトを聴いて、えらく感銘を受けた。
http://cellomemo.hatenablog.jp/entry/2019/08/05/145447
私の所属するアンサンブル団体で、モーツァルトをガチンコでやってみたいね、って話が出てきて、あの時のことを思い出した。
なぜ我々はモーツァルトを演奏できないのだろうか。なぜ、あの退屈な“例の”モーツァルトになってしまうのか。なぜ小菅優さんのようにできないのか。
そりゃ、文化土壌が違うとか(小菅さんはドイツ在住だし)、経験が違うとか色々あるだろう。でも、具体的に何でなの? 我々はどうあがいても、あの輝くモーツァルトを弾けないの?
楽譜を弾くだけだったら、余程他の曲の方が難しい。シンプルだからバレるとか、わけ知った顔でもの言う人いるけど、具体的に何なの? できない抽象的な理由は何の役にも立たない。できるようになる道筋が欲しい。
と、ここまでボヤき。小菅優さんのベートーヴェンソナタ全曲集にヒントはあるかもしれない。で気付いた点は、2つ。
まず、カンタービレである。どんなフレーズにも歌う。そこには緩急があり目的地がある。
我々が弾くベートーヴェンやモーツァルトの旋律って器楽的に捉えてしまって、中々カンタービレにできない。エチュード的になりがち。もしかすると、教育的背景も大きいのかも。
次にイン・テンポに拘らない。自分の情念に従って気ままに歌ってる(それでも逸脱しないのは脱帽)。エチュード的とさっき書いたけど、まさにこれが障害となる。考えてみれば、演奏中にテンポがエラく乱れてるぞ! けしからん! ってのは「テンポが乱れてるのは良くない」という思想の元のセリフだよね。聴いていて気持ちよければいいじゃない。気持ち悪いのはけしからんけどさ。
その気持ち良い良くないは、個人の感覚によることが多いから、ここで文化的土壌によるセンス不足を露呈するかもしれない。でも、テンポ乱れはけしからんってのは、感覚じゃなくて思想だよね。
こういったエチュード的思想の非音楽的教育を、西洋音楽輸入して100年足らずの日本という国がしてきたことは否めない。ま、こんなこと言っても何にもならんけど。
ま、この2点に拘わって取り組んでみて、然るべき人のレッスンを受けてみてからまた考えるか。